デジコムベーダー INVADER FROM SPACE DIGICOM VADERは、1979年にエポック社より発売された電子ゲーム。当時は、マイコンゲーム、LSIゲームとも呼ばれていました。
1978年のタイトーのスペースインベーダーゲームの大ブームを受けて、玩具の市場でも家庭でインベーダーを遊びたいという要望が高まりました。そのニーズを受けて数多くのインベーダー関連の商品が発売されました。家庭用テレビゲームは、PONテニスやブロック崩しなどの時代であったため、なかなかそれを実現してくれる玩具は登場しませんでした。最初の頃は、フイルムにミサイルやインベーダーを印刷したエレメカのようなものが多く、再現性としてはいまひとつだったのです。そんな中、翌79年と割と早い時期にエポック社より発売されたのが、このデジコムベーダーになります。
ポイントはいくつかありますが、蛍光表示菅を使用しており、アーケードのインベーダーに近いキャラクターを表現していたということ。16匹のインベーダーが画面内に現れ、地上まで降りてくるとゲームオーバーになってしまうという点や、UFOが登場してボーナス得点も再現していたことなど、アーケードの再現性(移植度)がかなり高いものであったことが特徴としてあげられます。LEDで安価に登場したバンダイのミサイルベーダーなどは、インベーダーが一匹しか登場せず、改良版のスーパーミサイルベーダーでも8匹(しかも降りてこない)と、この時期なかなかインベーダーゲームの再現は難しかったわけです。もうひとつの特徴は、同時代の玩具に比べて価格がなかなか高価だったこと。当時の価格が7,800円と3980円だったミサイルベーダーの実に2倍近いプライスを付けており、エポック社が雑誌に広告展開をしていたこともあって憧れの玩具だった。
箱裏の説明書き。3色カラーで16匹登場する(しかも色によって得点も分けられている)ということを謳ってあります。
デジコムベーダー説明書。あまり綺麗なものではありませんが、一応未使用品なので保証書も付いていた。
こちらがデジコムベーダー本体。初期のものなので、高価だった割には薄型でシンプル。今見ると、本体に比して画面の割合がとても小さい。これは、当時の蛍光表示菅ではあまり大型の装置を作ることが難しかった(価格との兼ね合いもある)ことによると思われます。黒いスクリーン部が広く採られているので、なかなか気付きにくいですが。
電源のON/OFF、レベルセレクト、スタートボタン、砲台の移動レバーとアタックボタン。
このレバーが、またかっこよかった。同じタイプのレバーが、翌年のテレビベーダーでも採用されていた。
こちらがゲーム画面。インベーダーが横に4匹分、横方向へは4列しかスペースがない。しかも、初期の電子ゲームのためスクロールはしない。では、どうやって16匹のインベーダーを再現しているか。インベーダーは画面左端より一匹ずつ登場し、右端に来ると一段降下してまた右側より出てくる。後から続けて次のインベーダーも続くため、ニョロニョロと繋がって移動してくるようにも見える。オリジナルの隊列を組んで移動してくるという点や、砲台を守るトーチカは、残念ながら再現されていない。カラーは、画面前にカラーセロファンを貼ることで実現している。これは、オリジナルのスペースインベーダーでも行われていたため、移植度(再現度)という意味ではあり。
今見るとなんてことはありませんが、当時は家庭でインベーダーができるというだけでも、憧れのゲーム機だった。
エポック社は、この前に野球ゲームのデジコムナインを発売しており、デジコムベーダーのヒットに気を良くしたのか、以後しばらくはエポック社のLSIゲームにはデジコムブランドを使用することになる。
元ネタのタイトーのスペースインベーダー。78年に登場するや、あちこちにインベーダーハウスやゲーム喫茶が乱立したり、小中学生などはゲームセンターが立ち入り禁止になったりと、一大フィーバーを巻き起こした。だいぶ後になって、デパートのゲームコーナーで20円ゲームになった頃に遊んだり、駄菓子屋でぱちものを遊べた位でした。
時期的にも、価格的にも近いトミーのスペースアタック。こちらは、隊列を組んでインベーダーが画面内を移動するようになっており、何気にデジコムベーダーより完成度は高い。だが広告や売り方の問題なのか、当時としては圧倒的にデジコムベーダーの方がよく見かけた。デジコムベーダーと同程度の画面の広さで、どうやって隊列を表現しているか。答えは、隊列を組んだインベーダーが画面を横切る。次に一段下がって逆方向から横切っていく。限られた表現力内で、各社あれこれ工夫していたことが伺えます。
学研のインベーダー。すさまじいインベーダーのブームにより、○年の科学&学習などの学習教材を販売していた学研までも電子ゲームに参入した。子供向けの科学と学習を持っている強みから、科学と学習の巻末には電子ブロックと並んで学研のLSIゲームの広告が付けられていた。インベーダは2匹しか登場せず、最高得点は199点と制限もあって、再現度はいまひとつ。この機種の場合、見所はレトロなパッケージと筐体のデザイン。
学研のインベーダーの改良版、インベーダー1000。色数が増えたり、最高得点が999点になったりと、いろいろとバージョンアップしている。学研は引き続いてインベーダー2000を投入しており、こちらは星が瞬き、インベーダが降下してくるというギャラクシアンの移植になっている。筐体デザインも見違えるように垢抜けた。
シンセイ(新正工業)のワープインベーダー。電子ゲームブームは、素朴な玩具を発売していた老舗の玩具メーカーにも及んだ。バージョン違いにインベーダーが戦闘機になったホットスクランブル、よりインベーダーゲームらしくなったゲキメツインベーダーなどがある。LEDを使用してインベーダーがランダムに点滅、対応する8つのボタンを押すことで撃退するという、もぐら叩きのような全く異なるゲーム性だった。
デジコムベーダーの翌80年には、エポック社より満を持してテレビゲーム版のインベーダー、テレビベーダーが登場する。こちらもインベーダーの隊列を再現できず、最前線の一列目だけが表示されており、弾が当たると隠れていた次の列が表示されるという方法を採っている。ただし、砲台がやられるとインベーダーが手を叩いて喜んだり、面の最後にはUFOが地上に降りてくるというボーナス面が追加されるなど、完成度としては電子ゲームを大きく引き離していた。テレビベーダーは、82年にはカセットビジョンのバトルベーダーとしても再登場している。
インベーダーと言えばインベーダーの大ヒットを受けて、翌79年よりコロコロコミックで連載が開始されたゲームセンターあらし。初期のあらしは、少しやさぐれた不良といった風情でありゲームセンターで腕を披露していた。小中学生のゲームセンターへの出入りが難しくなると、特設スタジアムや野球場など、(イベント会場のような)特別なステージでバトルをするようになった。ピアノの練習より編み出した初期の必殺技のつるぎの舞、ムーンサルトも対インベーダー戦により生み出された。ちなみにゲームセンターあらしがアニメ化された際のメインスポンサーはエポック社。すがや氏は、80年に小学館の学習誌に掲載されたチャレンジ一平でデジコムベーダーを取り上げている。
当時の子供のゲーム文化をコミック化したゾルゲ市蔵氏の8bit年代記では、一話を当時の電子ゲームネタに割いている。デジコムベーダーは、その象徴として登場。山の手のお坊ちゃんの自宅に、デジコムベーダー目当てで遊びに行くエピソードが紹介されている。ちなみにゾルゲ氏は、当時バンダイのミサイルベーダーを所有しており、作中でこの頃のデジコムベーダーの衝撃度を熱く語っている。
個人的な思い出と言えば、広告でその存在は知っていたけれど、近所に持っている人もおらず、近年まで遊んだことはありませんでした。私もバンダイのミサイルベーダーを買ってもらっていた。それだけ、この当時としては、高価格帯な玩具だったのですね。その後にブームとなったG&Wの6,000円という価格にしても、一台買ってもらえるかどうかというレベルで、何台も持っているという人は少なかった。その後日本がバブル景気に近づくにつれて、子供が当たり前のように一本5,~6000円するファミコンソフトを何本も買ってもらったり、スーパーファミコンでは一本一万円が当たり前になったりと、急激に世の中が変化していったよう思います。ちなみに数は出たみたいでプレミア付き玩具の部類ではありませんが、思い入れのある人が多いのかオークションでの値は上がりがちになります。
ということで、エポック社らしく当時としてはなかなかエポックメイキングな玩具であったデジコムベーダー INVADER FROM SPACE DIGICOM VADERでした。
参考:Wiki スペースインベーダーの項、帰ってきた電子ゲーム、ゲームセンターあらし/すがやみつる、8bit年代記/ゾルゲ市蔵、当時のエポック社の広告(なつかしもん)、米沢嘉博記念図書館:すがやみつる展:ゲームセンターあらしとホビー漫画